細川 ここ数年、八月がやってくると、「ああ、靖国の夏が来た」と感じるようになりました。2001年以来、「戦没者への哀悼の意をあらわす」として、年に一度は靖国神社を参拝する小泉純一郎首相に対し、中国、韓国は首相の靖国参拝を「軍国主義の復活」と非難を繰り返し、外交問題にまで発展させてきました。日本国内でも、首相の靖国参拝の是非をめぐって侃々諤々たる激論が交わされています。
では、靖国論議の、いわば当事者である日中韓を離れた立場からは、この問題はどのように見えるのか。カトリック教徒である知日派のケヴィン・ドークさん(ジョージタウン大学教授)は、ローマ法王庁が日本国民の自国への価値観や愛国心のシンボルとしての靖国参拝を容認していることを指摘し、「首相の靖国参拝に政教分離上の問題はない」と論じています(「諸君!」2006年8月号「参拝は『聖なるもの』へのアプローチだ」)。しかし、宗教界からも、A級戦犯の分祀や新しい追悼施設の建設を求めたり、「靖国神社は政教分離に反している」と批判する声も出ています。
バチカン法王庁元教育省次官であるピタウ大司教は、1952年の来日以来、三十余年に及ぶ日本滞在経験をお持ちです。栄光学園や上智大学で教鞭をふるわれ、1975年から六年間、上智大学学長を務められました。また、ハーバード大学でライシャワー教授に師事して政治学博士号を修得され、『ニッポンと日本人』『井上毅と近代日本の形成』などの著書も多数あります。日本を愛し、日本文化を知悉したピタウさんが、現在の靖国問題をどのように捉えられているか伺いたいと思います。私も幼稚園からカトリックの教育を受け、高校のときに受洗しました。実は私の家は先祖代々の仏教徒で、キリスト教の信者は家庭では私ひとりです。
ピタウ おお、今日はカトリック教徒同士の対談になりますね。カトリックの一司祭として、またひとりのキリスト教信者として、靖国参拝について、私の考えをお話しいたします。
私は、ひとりの日本人である小泉純一郎さんが靖国神社に参拝し、戦没者に対して祈りを捧げることは、彼が中国からの批判に対して答えているように、まさに心の問題であり、誰にも止めることはできないと思います。信仰の自由は、民主主義の最も重要な原則のひとつです。
しかし、民主主義にはもうひとつの大原則があります。それは、政教分離です。宗教と政治は多くの接点があり、また互いに協力し合うことも重要ですが、両者が癒着することによって、さまざまな弊害が生じたのも歴史的事実です。詳しくは後に述べたいと思いますが、われわれカトリック教会も過去に大きな過ちを犯しました。だから、両者の領域ははっきりと区別されていなくてはならないのです。これが、靖国問題を考えるときの私の出発点です。宗教が本当に尊いものだと考えるならば、そこには信仰の自由と同時に、政教分離がなされていなければなりません。
もちろん現在の日本は、さまざまな宗教が自由に存在しています。共産圏の国家で見られるような宗教弾圧もありませんし、国家による特定の宗教の強制もありません。仏教、カトリック、プロテスタント、創価学会、イスラム教、なんでも認められています。だから杞憂と思われるかもしれませんが、靖国神社がひとつの神社としてではなく、日本という国で唯一のシンボルとされてしまうこと、すなわち「国家宗教」となってしまうならば、私は非常に危険なことだと考えます。小泉総理が、個人としてではなく、国民を代表する首相として靖国に参拝することは、こうした懸念を強めてしまうのではないでしょうか。
ですから、小泉さんが靖国参拝を行うならば、公人としてではなく、あくまでも私人として参拝するという姿勢を内外にはっきりと打ち出す必要があると思います。
(以下 略) |