立場の自覚欠いた日銀総裁ら
プロ意識に欠けるプロが多くなった。本物のプロは、自分自身の置かれている立場を自覚し、何をしなければいけないのか、何を優先しなければいけないのかを認識して、それに伴った行動をとることができる人でなければならない。それが、成熟した大人の姿であるはずだ。しかし、今の日本は、あまりに多くの大人たちが成熟していない。社会が乱れているのも、そのせいであると私は思っている。
「プロ中のプロ」を自任するファンドマネージャーが、その分野の憲法ともいえる証券取引法違反で逮捕された。彼は本当に、彼の言う“プロ”であったのだろうか。
金融政策の要である日本銀行の総裁が、実態が不透明なファンドを舞台に、資産を運用していた。しかも、そのファンドの元代表は逮捕され、ファンドの中核会社共々、起訴された。ルールがないのだからルール違反もあり得ないだけのことであって、それで済む問題ではない。日銀の総裁は、年収三千万円以上の高給取りだが、それだけの権力と責任が伴う職務にあるということだ。その立場を自覚していたなら、疑われる恐れのある状況は自ら払拭しておくべきだし、そうしなかったことによって疑いを晴らすことができないのなら、その職務から離れるべきである。これがいわゆる道義的責任を取るということではないだろうか。
政府与党は、総理の任命責任を問われないよう、日銀総裁の行ったことに問題はないという姿勢である。しかし日銀に対し、市場に対し、あるいは政治や政府に対し、国民からの不信感が募っているときだからこそ、任命権者として何をしなければいけないのか判断すべきである。郵政民営化に関しては、これまでの同志であっても、ただこの一点のみ反対しているだけで冷徹な扱いをすることができるほど潔い小泉総理が、なぜ日銀総裁の問題には我れ関せずという態度を貫くのだろうか。日銀総裁共々、自ら置かれている立場を理解していないと思わずにはいられない。
国民に責任ある自民総裁選に
小泉政権最後の国会も、重要法案が軒並み継続・廃案になるにもかかわらず、一日の会期延長もせず、あっさり終わってしまった。その後は、ポスト小泉の話題がない日はない。しかし、ポスト小泉を狙っていると思われる人たちが、自民党総裁、そして総理大臣になって何をしたいのか、最高権力者としてどう振る舞うつもりなのかということは、今の時点では全くわからない。五年という長期政権が終わって新しいトップが生まれるというのは、ある意味、政権交代でもある。国民のために、どんな政策を、どんな理念の下に行って、そのためにどんな政権運営をしようとしているのか全くわからないのに、連日ポスト小泉の話題で持ちきりである。自民党員でなくとも国民全体にわたって関心の高い総裁選について、これほど判断材料がないというのは、国民に対して無責任ではないだろうか。しかも国会も終わり、総裁選まで三ヶ月を切った。もったいぶらずにそろそろ正式に名乗りを挙げ、政策を示し、国民が理解・判断するための期間を十分にとるべきである。
小泉政権が郵政民営化と道路公団民営化に明け暮れていたため、今の日本は課題山積である。その中で私は、ポスト小泉に、特に次の三点について明確な理念と政策を打ち出して欲しいと望んでいる。
一つは、「国造りは人造り」といわれている教育政策である。小泉政権は、教育分野にはほとんど興味がなかったようで、その無策ぶりはあきれるほどであった。悲願であった教育基本法改正案を国会に提出しながら、結局任期中には成立させることもできなかった。しかし、小泉政権の五年間は、小学校に入った子供が六年生になるほどの月日の流れがあったわけで、政権の無策ぶりの犠牲者はいうまでもなく子供たちである。ポスト小泉がやらなければならないことはたくさんあるが、まずゆとり教育を改め、授業時数を増やすこと。知力・体力・学力共に落ちている現状では、もはや検討の時期を終え、実施の時期に来ているはずである。また家庭と学校の責任を明確化すること。昨今の親たちは、とかく学校に全ての責任を押し付ける傾向にある。個々に様々な事情があるとしても、親として子供に対し、大きな責任を負っていることに違いはない。その責任は放棄できないという自覚を親の間に促さなければならない。
人口減に対処した制度改革を 二点目は、少子高齢社会の実態にあった社会保障制度に改めるということ。子供の数がわずかでも増えていくことに期待せず、人口減を前提とした制度を作ることが最重要である。
三点目は、対米関係を再構築すること。沖縄の基地問題のみでなく、あらゆる分野においてアメリカとの対等な関係を作るべきである。それで初めて真の同盟国になるのではないか。
特に権力のある人間には、自ら置かれている立場を常に省みながら、物事を判断する優れた能力が必要である。日銀総裁といえども、総理大臣といえども、聖人君子ではないというが、私は限りなく聖人君子に近づくための修行や鍛錬が必要であると思う。それをしない人間に、トップになる資格などない。 |