| 実は私は、『スイカ党』の党首になりたいと思うくらい、スイカが大の好物。それは子供時代のある体験がそうさせました。
私は中国の天津で生まれ、すぐに母方の実家がある和歌山に引き上げ、二歳の時に終戦を迎えました。その後、千葉市蘇我にある「引き上げ者住宅」に、十三歳まで住んでいました。そこは十二畳一間の長屋住宅。両親と男ばかり三人兄弟の計五人で住んでいました。
家から徒歩五分くらいのところに約六十坪の田畑を近所の農家から借りて、稲やナス、きゅうり、とうもろこしなどあらゆる野菜を自家栽培していました。冬の野菜は買ってくることもありましたが、夏はほとんど自給自足の生活という感じでしたね。
父は習志野の陸上自衛隊に勤めていたので、週末を利用して稲や野菜の栽培をし、私もその父を手伝いました。弟とは年が離れていたし、私は親の言うことをもくもくとこなすタイプだったので、手伝うのは私一人。手伝いながら、畑に出るカエルやヘビなどを全身泥だらけになりながら捕まえたこともありました。
その畑でスイカも作っていましたが、我家のスイカはどうも小さい。それがある時、近所の方からいただいたスイカがものすごく大きくて、それを頬張って食べた時の幸福感、満足感はたまらないものがありました。大きいものを頬張るということの幸福感でしょうか。
この原体験ゆえに、今でもスイカを食べると幸せな気持ちになります。それに夏場の水分とエネルギー補給にも、スイカは優れものですから、今も毎日のように食べています。
子供のころの食卓は、自家栽培した米や野菜が並び、そして父の博学披露の時間でもありました。父は大変な読書家で、自称「博学博士」。雑学の大家で、父に聞いてこたえられなかったことがないくらい、何でも知っている。その博学を、ジャンルを問わず、食卓の場で話すのですが、私たち子供は、『それ、本当なの?』と半信半疑で聞いていましたね。
また両親共に、和歌が好きだったので、「こんな歌を作った」と二人で話している。私たち子供は、そんな両親の会話を聞きながら育ったといってもいいかもしれません。
また母は、看護師や養護教員をしていたので、食事の栄養のバランスがとてもいいんです。好き嫌いもなく、なんでも食べられるようになったのは母親の食育のお陰だと思っています。
自家栽培の米や野菜と、父の博学---- 子供の頃の食卓には家族の団欒がありましたが、今の家庭では、まず家族が揃って食事をする機会すらない。いつか家族団欒の食卓を取り戻したいと思っています。もちろんそこにはスイカも用意して。
(取材・構成 細川珠生) |