最終更新日 2004年10月28日
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「食卓の記憶」31 平沼赳夫氏
(「週刊文春」2004年8月12・19日合併号)

『終戦後の強烈な体験』

 私は六歳で終戦を迎えましたが、当時住んでいた西大久保一帯は、三月の東京大空襲で焼け野原。建物も何もないし、もちろん食べる物もないような状態でした。町内会がバラックのようなものを建て、配給などを行っていましたが、その中にハーシーのチョコレートがあったんです。おそらく進駐軍が、古くなって自分たちはもう食べないものを配給品にしていたんだろうと思います。当時は砂糖もなく、戦時中あったものはサクマドロップぐらいでしたから、このチョコレートを食べて、「アメリカってこんなに美味しいものがあるのか!」と、相当なカルチャーショックを受けましたね。本当に古くて、粉を吹いているようなものだったし、一家に板チョコの“かけら“がいくつか配られるだけでしたが、姉と二人、むさぼり食べた記憶があります。
 あと、トディというメーカーの、缶に入ったチョコレートミルクシェイクが配られることもありました。これも進駐軍の携行食だったようで、これにも強烈なショックをうけました。
 時々焼け野原を米軍のジープが通り過ぎる時に、リグレーのチューインガムを放ってくれるんです。それが欲しくて必死で追いかけて手に入れていましたが、そのガムを噛んで食事になると、勿体無いからとお皿の端に一旦出すんです。それで食事が終わったらまた口に入れる。それだけ日本は貧しかったんですね。
 これらのお陰か、進駐軍に対する悪いイメージはなく、これも占領政策を円滑に進めるための一つの方法だったのかもしれません。
 またバナナも、戦後台湾から入ってきましたが、最初食べた時はやはりカルチャーショックを受けました。当時、バナナは今のメロンのように高級品で、お見舞いなどの贈答用に使われるようなものだったんです。今は飽食の時代でありあまるほど食べ物があり、私が味わったようなクラクラするような感動ってないんだろうと思いますが、子供の頃に食べたものの感動は、その後も原体験となって今でもそれが好物となっている人って多いのではないでしょうか。
 それからお菓子などが簡単に手に入るようになったのは、昭和二十五年の朝鮮戦争の頃からだったと思います。「朝鮮特需」で経済全体も生活もよくなってきた頃、母親が出かけるというと、「どこに行くの?」としつこく聞いて、新宿辺りに買い物に行くときには、必ずついていきました。目的は不二家などでパフェを食べること。最近はパフェなど食べることはありませんが、元・通産大臣の塚原俊平氏がまだ生きていた頃、彼は必ず食後に甘いものを食べるので、よくホテルのコーヒーショップでつき合わされて食べていました。やはり何か懐かしい味がしましたね。
  (取材・構成  細川珠生)


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