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アメリカ映画の法廷ものではよく見かける「陪審員」。プロの裁判官とは別に、一般人が法廷に席を連ね、裁判の一部始終を見守る。審理が終わると、別室で話し合われ、有罪・無罪の意見を言う。“訴訟大国”アメリカの映画では、実によく見る光景だ。それと似たような制度を、日本でも導入する事になりそうなのだ。確か、『陪審員』という映画で、陪審員に指名されたデミ・ムーア演じる女流彫刻家が、有罪にするか否かで相当悩んでいたシーンが印象的だった私としても、もし、自分がくじに当たってしまったら・・・・・・と、なんだか不安。
そう、日本の「裁判員制度」は20歳以上の有権者から無作為のくじで選ばれ、裁判員になることは、「国民の義務」なのだそう。対象となる事件数は、2003年でも全国で約2,800件。原則として一件につき、裁判員6人と考えると、年間1万6,000人以上が、裁判員になる機会と遭遇することになる。司法のプロでもない私たち一般人が大きな責任を負わされることになるこの「裁判員制度」は、一体、いつからどんなところで話し合われてきたのだろうか。
「裁判員制度」導入は、司法制度改革の一つであり、他に、誰もが気軽に法律相談を受けられるようにする「総合法律支援(司法ネット)構想」や、特許などの知的財産紛争を専門とする「知的財産高等裁判所」の設置、弁護士費用の敗訴者負担など、いくつかの改革や新制度設置も含まれる。国民参加による司法制度を目指して、1999年7月に発足した「司法制度改革審議会」での議論から始まった。
でも、つい2、3ヶ月前に初めて知ったという国民がほとんどのはず。私たち国民が、ある日突然、“くじに当たって”、まったく自分とは関係のない裁判、それも殺人などの重大事件の刑事裁判に関わり、罪の有無、量刑までを決める重大責務を負うことになるのだ。この点、アメリカの陪審員より責任は重い。アメリカの陪審員は、量刑の決定までは求められていないからだ。
戦前の日本でも、1928年から15年間「陪審員」が導入されていた時期があったが、日本の風土に合わないということで1943年に停止されたのだ。今度の制度でも、“くじに当たった”場合、裁判員を辞退することは、実質ムリ。思想信条などの理由で辞退できることにはなっているけれど、「人が人を裁く制度を一切容認できない」という人に限られる。単に「イヤだから」という理由では認められず、辞退の可否は裁判所が決めることになる。育児や介護で自分の仕事すらままならない主婦にも参加を促すために、託児所や介護サービスも今度検討していくという“配慮”をしてくれるようだが、そこまでして国民が裁判に参加することの「効果」はどれほどまであるのだろうか。 確かに、最近の判決を見ていると、首を傾げたくなるような事例も結構ある。自分の子供を虐待死させながら、「殺意はなかった」ということで、母親に懲役8年の判決が出た広島地裁での一件など、裁判官の良識を疑いたくなることも少なくはない。しかし、「人を裁きたくないから弁護士になった」という法律家のプロもいる中で、ズブの素人である一般国民が重大事件に関わるには、逆に裁判を軽んじることにはならないだろうか。そもそも、「国民の義務」というのなら、憲法で定めることが先のような気がするのだが・・・・・・。 |