|
父親の仕事の関係で小学校六年生まで過ごした満州では、誕生日などのお祝いの時に外食するのはやはり中華料理。綺麗なお店ではありませんでしたが、そこで出される前菜に南瓜やスイカの種を炒ったものがありました。普通、歯で種の殻を割って中の実を食べるのですが、これを父がまるで手品のように、すごい早業でやるのです。他に何を食べていたのかほとんど覚えていませんが、このことだけはとても印象深く覚えています。
また、友達が大勢家に遊びに来たときなど、出前といえば、焼き餃子でした。日本で寿司をとるのと同じような感じで、大きな寿司桶いっぱいぐらいの餃子がありました。日本で食べる焼き餃子とほとんど同じでしたが、にんにくは少なかったかもしれません。
帰国して、戦時中も含め終戦までは食糧もそこそこありましたが、旧制中学の半ばで終戦を迎えて、それから昭和二十二年頃まで、日本は一番食糧事情の厳しい時代で、食べることが本当に大変でした。この頃の食事は、配給のさつま芋やグリンピース入りのご飯。さつま芋は多少甘みがあってそれなりに美味しかったのですが、グリンピースは味もないし皮が残るのがどう好きではなく、今でも豆ご飯やうぐいす豆入りの饅頭など、好きではないですね。ご飯だって、玄米を一升瓶に入れて、太い菜箸でついて七分づきぐらいにしたようなお米ですから、当時はそう不平を言わず食べましたが、今となってはもう食べられません。この体験のせいか、今でも「美味しいなぁ」と思うのは、炊き立てで湯気のたったピカピカの白米。当時は麦飯さえ立派な方でしたから、それを考えると、今の飽食の時代は『天国』ですね。
大学の学食でも配給キップがないと食べられないのです。いくつも品数があったわけではありませんでしたから、私はだいたいライスカレーを食べていました。
昭和二十六年のサンフランシスコ平和条約締結の頃になって漸く、食事が普通に取れるようになったと記憶しています。昭和二十四年の総選挙での田辺忠男さんという候補者の演説で「あと三年待ってください。三年経ったら配給ではなく食べられるようにしますから」と言っていましたが、「三年も待てるか!」なんて聴衆から野次られていました。
食糧難の厳しい時代でしたが、食べ物がないからということではなく、私が子供の頃はごはん粒を残すなということが“躾”として親から厳しく言われていました。当時は駅弁を残すと駅員が怒りにくるくらいでしたから。今はこういう“躾”がなくなってきているようですが、家の中で食事の食べ方から学ぶことは多く、今こそ必要なことだと思いますね。
(取材・構成 細川珠生) |