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先日乗ったタクシーの運転手さんが「来年から年金生活に入るけど、東京ではとても六万六千円では暮らせない。公団(住宅)の抽選が当たればいいけど、そうじゃなきゃ、カドマンズにでも行こうかと思って」と、真剣な面持ちで言っていた。「やっぱり!」というのが私の感想だった。
最近、私の周囲でも自分の年金受給額を計算する人が増えた。正確な額まではなかなかわからないが、皆同様に疑問に感じているのは、「国民年金の六万六千円で暮らせるのか」ということだ。夫婦の年金を合算したり、子供が生活の面倒をみてくれる場合はもう少し状況はよくなるのかもしれないが、四十年間保険料を納めて月額六万六千円の支給では、老後の不安があまりに大きい。
しかも、国民年金保険料の未納率は四十%近くにも達し、少子高齢化で年金財政は圧迫されている。これでは、老後の生活が不安でたまらないのももっともだ。
私は、老後に不安を与えないということが、国家の重大な責任だと思っている。年をとれば、思うように働くことはできない。病気もする。介護が必要になれば、介護保険を使っても、一割は自己負担。いくら在宅介護を勧められても、住宅改修費は安くはない。収入がないのに、お金はかかる。これが高齢者の生活の実態である。
その国に生まれ住んだ国民が、高齢になり、自力で生活できなくなったときに、国家がその人の余生に責任を持つことこそ、「高齢者福祉」の根幹となる考え方ではないだろうか。
しかし、今、日本政府が進めている福祉政策は、「ないよりはまし」程度のものであり、そこに国民の老後に対しての国家の責任や理念は全く見られない。
国民の関心の高い年金問題も、社会保障政策の理念と国家としての責任を明確にすることから考えるべきである。その理念を実現するために、現状の社会保障制度を維持することが正しいのか、それこそが選挙で問われるべきではないのだろうか。
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