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毎年、「終戦記念日」の数日前になると、戦争に関するさまざまな特集が組まれる。年々、その数は減ってきているようだが、「戦争」を、既に歴史上の出来事として受け止めている私の世代にとって、そのときが、戦争とは、平和とは何かを考えさせる貴重な機会であることはいうまでもない。今年もまた、戦争という悲劇の時代を生きてきた多くの人々の苦労の上に、今の自分たちの平和な時代があることに、改めて思いをいたしたところである。また、私自身、日常感じる不満や怒りも、戦争の時代を生きた人たちの苦労を思えば「些細(ささい)なこと」と反省する機会にもなっている。
敗戦直後の日本には、何とかしてもう一度、この国を建て直そうという気概があったという。それが国民生活の柱であり、政治の柱であった。
私が生まれたのは、敗戦から二十三年後。既に日本は豊かな時代にあった。物心ついて最初に目にした政治の風景は、ロッキード事件。それからというもの、政治といえば、金権腐敗。政治家は、国家のあり方を考えるより、自分の集票のことで頭がいっぱい。その政治は今も続いているどころか、ますます顕著になっている。票に結びつくとわかれば、スーツ姿でも盆踊りに出かけるのに、日本人の命がかかっている拉致問題には、いまだ関心を持たない政治家。政治の使命、国家の責任などということを政治家はどれだけ考えているのだろうか。
今、一種のブームとなっている「マニフェスト」。しかし、細かい数値目標にこだわるあまり、大局観を見失っているように思えてならない。期限を切った数値目標を示すことは、国民にとって分かりやすい判断材料とはなるが、政治が示さなくてはならない最も重要なことは、日本は、どんな国を目指すのか、国家の責任とは何かということである。集票のために盆踊りに行く暇があるのなら、そのような思索に時間を費やすべきではないか。
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