| ★後から勝ち過ぎだとは何事か
第四十四回衆議院総選挙の結果が明らかになって早二週間以上が過ぎた。国民全体が、自民党の圧勝に“呆気にとられ“ていたが、ふと冷静にその結果を見てみれば、ちょっと“勝ち過ぎ”ではないかと国民は思い始めた。そう思う国民は、極めて無責任で、私のほうがあきれてしまう。自民党が勝ち過ぎたのは、そこへ投票をした国民が多かったというだけで、自民党が勝手に勝ち過ぎたのではない。多くの国民は、郵政民営化の賛否を問う選挙といわれれば、それだけを考える非常に単純な思考になってしまったようなのだ。小泉首相の話術、あるいは選挙戦術に“洗脳”されたと言ってもいいかもしれない。私の周囲にも“洗脳”された人たちは八割ぐらいいたような気がする。しかも彼らは、他の見方や意見を聞こうともしない。まるで自分が、“小泉劇場”の登場人物の一人であるという気分なのか、興奮冷めやらぬ状況だ。
国民の政治への参加意識を高め、自分たちの一票で何かが変わるという実感をもてたことは、よかったことかもしれない。ただ、それは唯一評価できる点であり、今回の郵政民営化法案をめぐる一連の小泉首相のとった行為は、問題だらけである。またそれを手放しで賛美した国民の多くにも、むしろ政治の側より大きな問題がある。
何より、解散そのものの正当性を考えなくてはならない。参議院で否決された法案を、再度衆議院で採決せずに衆議院を解散したことは、民主主義の原則から大きく踏み外した行為だ。わずか五票差で通過したに過ぎないということから、衆議院に戻しても、成立要件である三分の二の賛成は到底得られないからと、その手続きを省略したというのが、小泉執行部の“言い訳”である。しかし、民主主義というのは、手続きこそが大事である。“省く”権限が、総理大臣にあっていいものだろうか。
★首相にリーダーとしての過ち
また到底無理とあきらめる前に、小泉総理が四年前の自民党総裁選以来の公約である郵政民営化をなんとしてでも実現したいのであれば、そのためのあらゆる努力をするべきであったのに、その姿が見られなかった。それどころか、自らの考えとは違う意見に一切耳を傾けることなく、反対意見を述べる同輩たちをばっさり切るというのは、独裁以外の何者でもないだろう。リーダーシップなどという奇麗事で済まされる問題ではない。しかも、郵政民営化への賛否だけで党の公認・非公認を選別するというのは、国政に携わる者を選ぶ基準としてあまりにもおかしい。総理大臣として自らの政策の実現を目指すことは当然である。しかし、「郵政民営化」だけが国政のテーマのごとく扱うのは明らかに間違っているのだ。
それでも実現したい郵政民営化であるなら、なぜ、小泉首相は就任以来四年間で三回も行われた国政選挙でも、同様にしなかったのだろうか。今回郵政民営化法案に反対票を投じた議員に対してのみ、これだけ徹底した粛清を行うのは到底理解できない行為である。反対票を投じた人の中には、日本の深刻な問題である少子化についての政策に取り組んでいる人もいるし、国会議員としてもっとも重要な政治課題である憲法について、積極的に取り組んでいる人もいる。国際テロ事件である拉致問題解決のために奔走している人もいる。それらの人こそ、国会議員として求められる人材であり、郵政民営化に賛成だからといって、政治家としての資質を疑うような人物を認めるようでは、国民に対して重要な過ちを犯しているといっても過言ではないだろう。
不幸なことに、このようなことは、今回の選挙でほとんど話題にも上らず、有権者たる国民はまるで娯楽としての“小泉劇場”を楽しんだに過ぎない。しかも、当初から自民党総裁としての任期が総理大臣としての任期、つまりあと一年しか国民に対して責任をとらないという人を信任するということがどういうことなのかも、まったく考えていないのが、今の日本国民の大多数である。子供の学力低下を嘆く前に、大人の思考力・判断力の低下を反省すべきである。
★大衆迎合戦術に踊らされるな
今回の選挙でわかったことは、日本人はいかに単純な思考の持ち主が多いことかということである。政党や候補者は、国民に受けのよい言葉で取り込もうとする。民主主義である以上、大衆迎合の戦術を取らなくてはならないのは、ある程度は仕方ないことだ。しかし、国民はその戦術に踊らされず、一歩引いた高いところで、冷静に物事を判断する力が必要であり、その力をつけるための努力を日ごろから怠らないことが重要である。政治への審判の権利は、私たち国民が持っている以上、私たち国民が政治家以上に賢くならなくてはならないのだ。
「斬る」だけの改革は、ある意味誰にでもできる。しかし、不必要になったことを「切り」ながら、人は「斬らない」改革ができる者こそ、真のリーダーなのである。
世界日報「ビューポイント」2005年9月26日(月)掲載 |